近代合理主義としてのモダンを超えて知覚的に認識せよ
近代合理主義としてのモダンを超えて知覚的に認識せよ
350年前、デカルトは、我思う。ゆえに我ありといった。
今や、われわれは、我見る。ゆえに我ありといわなければならない
(『イノベーターの条件』(P.F.ドラッガー)より)


中世の暗黒時代では、一つの真理を得るならば、
論理の力によって、もうひとつの真理を得る。
そこからもうひとつの真理を得る。
さらにそこからもうひとつ・・・。
こうして、全世界、全宇宙の真理を得る。
この考察をつきつめると、神の存在まで論理で証明することができる
こうのに考えた幾何学者がいた。
しかし、この定式が成立するには、
最初の真理が、確たる真理でなくてはならない。
悪魔に魅せられた挙句の幻であってはならない。
しかし、かかる考えが幻であったとしても、
かかることを考えている我が、今ここにあることは間違いはない。
こうして彼は、
「我思う。ゆえに我あり」
といった。
暗黒に理性の光が差し込み、
そこから近代合理主義としてのモダンが始まった。
モダンは、すべては論理によって明らかにできるとした。
全体は部分によって規定されるとした。
何事も定量化できて初めて意味をもつとした。
事実、そこから技能の技術化が始まり、工具製作者が生まれ、
ジェームズ・ワットの実用蒸気機関が可能となり、
産業革命の物的基盤がもたらされた。
奇しくも同じ頃、同じスコットランドのアダム・スミスが『国富論』を書いて、
ブルジョア資本主義の理念的基盤ができた。
しかし今日、われわれの眼前にあるあたらしい現実はすべて複雑系である。
論理のみによってそれらの問題を扱うことはできない。
部分最適の和をもって全体最適とすることはできない。
致命的に重要なものは定量化できないもののなかにある。
「知覚的な認知が不可欠である。」
すべてを命あるものとして見る世界観が必要である。
組織社会の成熟、
グローバル経済の展開、
地球環境問題の深刻化、
緊急に提示することが求められている教育ある人間のモデルなど、
すべてが形態的である。
論理だけにたよることはできない。
「デカルト以来重点は論理的な分析に置かれてきた。
これからはこの論理的な分析と知覚的な認識とのバランスが必要とされる」
(『イノベーターの条件』(P.F.ドラッガー)より)
ドラッガーは以上のように考察してるが、
「知覚的に認識せよ」といっているのは
彼の立場的なものだと思う。
実際問題、もっと深いものへの感覚の世界への興味があったにちがいないと
と考えるのは考えすぎだろうか?
いずれにしても、論理至上主義のものは
人間性の欠如につながり、生命維持装置的なもの通じる
と考えらえる。
350年前、デカルトは、我思う。ゆえに我ありといった。
今や、われわれは、我見る。ゆえに我ありといわなければならない
(『イノベーターの条件』(P.F.ドラッガー)より)
中世の暗黒時代では、一つの真理を得るならば、
論理の力によって、もうひとつの真理を得る。
そこからもうひとつの真理を得る。
さらにそこからもうひとつ・・・。
こうして、全世界、全宇宙の真理を得る。
この考察をつきつめると、神の存在まで論理で証明することができる
こうのに考えた幾何学者がいた。
しかし、この定式が成立するには、
最初の真理が、確たる真理でなくてはならない。
悪魔に魅せられた挙句の幻であってはならない。
しかし、かかる考えが幻であったとしても、
かかることを考えている我が、今ここにあることは間違いはない。
こうして彼は、
「我思う。ゆえに我あり」
といった。
暗黒に理性の光が差し込み、
そこから近代合理主義としてのモダンが始まった。
モダンは、すべては論理によって明らかにできるとした。
全体は部分によって規定されるとした。
何事も定量化できて初めて意味をもつとした。
事実、そこから技能の技術化が始まり、工具製作者が生まれ、
ジェームズ・ワットの実用蒸気機関が可能となり、
産業革命の物的基盤がもたらされた。
奇しくも同じ頃、同じスコットランドのアダム・スミスが『国富論』を書いて、
ブルジョア資本主義の理念的基盤ができた。
しかし今日、われわれの眼前にあるあたらしい現実はすべて複雑系である。
論理のみによってそれらの問題を扱うことはできない。
部分最適の和をもって全体最適とすることはできない。
致命的に重要なものは定量化できないもののなかにある。
「知覚的な認知が不可欠である。」
すべてを命あるものとして見る世界観が必要である。
組織社会の成熟、
グローバル経済の展開、
地球環境問題の深刻化、
緊急に提示することが求められている教育ある人間のモデルなど、
すべてが形態的である。
論理だけにたよることはできない。
「デカルト以来重点は論理的な分析に置かれてきた。
これからはこの論理的な分析と知覚的な認識とのバランスが必要とされる」
(『イノベーターの条件』(P.F.ドラッガー)より)
ドラッガーは以上のように考察してるが、
「知覚的に認識せよ」といっているのは
彼の立場的なものだと思う。
実際問題、もっと深いものへの感覚の世界への興味があったにちがいないと
と考えるのは考えすぎだろうか?
いずれにしても、論理至上主義のものは
人間性の欠如につながり、生命維持装置的なもの通じる
と考えらえる。
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